キームスビィミー

鈍重なステイヤータイプをよく出したヴィミーの産駒にしては速力に富んでいたキームスビィミー。小林稔(向かって右)厩舎草創期を支えた活躍馬である。

’70年代初頭の関西を代表する遅咲きの花


「天下は家康式じゃなきゃ取れない」

1996年にフサイチコンコルドで日本ダービーを制覇した西の名伯楽・小林稔(1926~2009)が生前語った信条はこうだ。

「私のモットーは、一に健康、二に努力、三に忍耐。馬を仕上げるのも忍耐。戦国時代の武将に例えるなら徳川家康ですよ。好きなのは織田信長だけど、彼は天下は取れんかった。天下は、家康式でなかったら取れんなと思う」

小林師が遺したこの言葉は、師の育てた名馬たちの持つキャラクターを裏打ちしている。ミスターシービー世代の強豪スズカコバン、旧8歳まで西の重賞戦線で活躍したランドヒリュウ、いずれも一線級のステイヤーだったムッシュシェクルとハギノリアルキング、そして結局未完に終わった超良血馬エモシオン…大輪を花開かせるに至ったかどうかは別として、小林稔厩舎のトップホースは徳川家康のように思慮深く慎重に、且つ辛抱強く使われたイメージがある。奇跡のダービー馬たるフサイチコンコルドはあくまで奇跡であり、例外だ。

そんな小林稔厩舎の特色は、1965年の開業より数年を経て手掛けた1頭の重賞ウイナーにも表れている。かつて芝2400mの日本レコードを保持していた高速ステイヤー・キームスビィミーである。

鳴くまで待とう、晩成馬

1966年、静内の出羽牧場で誕生したキームスビィミーは、馬名から連想されるように1955年の“キングジョージ”の勝ち馬ヴィミーの息子である。最近の例で言えば、英ダービー馬ワークフォースの血統表にも名前が載っているヴィミー。長距離型種牡馬の割に外れが少なく、 短距離血統との和合性にも優れていたが、天皇賞などの大舞台での惜敗もまた多かった。なお、日本馬の名前に「ヴ」が使用可能になったのは時代は下って1990年のこと。それまではヴィミーの仔の命名も、クラブィミー(新潟記念勝ちのセンゴクヒスイの母)やタカブィミー(重賞3勝馬スピーデーワンダーの全妹)、またはキームスビィミーのように「ブ」か「ビ」で「ヴ」を代用していた。どこか間の抜けた印象を受けるキームス「ビ」ィミーという馬名の成り立ちにはこういった経緯がある。

母のオベイドは英国産の輸入繁殖牝馬。そしてその初仔のタイギョウ(父Hook Money)は1966年の阪神3歳Sを制した持込馬である。タイギョウは後に日本ダービーへコマを進めたが28頭立ての25着と惨敗を喫しており、種牡馬入り後もさしたる成績は残せなかった。オベイドにヴィミーを交配した動機について推測するに、マルセル・ブサック王国を代表する名種牡馬トウルビヨンの父クサールの5×4×4×6の多重クロスにヒントがあるのではないかと思う。トウルビヨン色の非常に濃いオベイドの血統表は一見の価値ありだ。

当初は中京競馬場で開業し、1968年の栗東トレーニングセンター完成と同時に移転した小林稔厩舎。同厩舎に所属したキームスビィミーは1966年生まれだから、順調ならば3歳(旧馬齢表記)となる1968年夏か秋にはデビューしていたはずだった。実際に、同期の天皇賞馬トウメイやメジロアサマ、皐月賞馬ワイルドモアは3歳夏の北海道シリーズでデビューしているし、ダービー馬ダイシンボルガードだって同年9月デビューだ。かつての夏の上がり馬の代名詞・菊花賞馬アカネテンリュウにしたって年内には使い出されている。だがインブリードの弊害なのか分からないがキームスビィミーは体質が弱く、深管に慢性的な不安を抱えていた。

現代よりも馬の競走寿命の短い時代。加えて3歳夏に初陣を飾ってなんぼの時代に、「ひ弱かったから」という理由で使い出しを遅らせる例はあまりなかった。後にフサイチコンコルドを明け4歳の正月にデビューさせた小林師は、いわゆる「馬優先主義」を先取りしていたと言えるのかも知れない。何とキームスビィミーの初陣は1969年7月の4歳未出走・未勝利戦であった。函館芝1200mの条件で行われたこのデビュー戦を、新人の飯田明弘騎手を乗せた彼は好タイムで難なく勝ち上がる。「さすがタイギョウの弟、只者ではない」との声が上がった。

既走馬相手にポン勝ちを収めたものの、それからキームスビィミーは休養に入り、2戦目は翌1970年4月にまでずれ込んだ。久々となる実戦を5着で叩き、3戦目、4戦目と飯田騎手の兄弟子の小野幸治騎手の手綱で連勝。続くパールS(阪神芝2200m)で3着に敗れた後、また長期休養。1971年3月に競馬場に帰ってきた彼はすでに6歳を迎えていた。

強豪は両目を開けた

生まれつき体質の弱さを抱え、道悪が空っ下手。こんな2つの弱点を持っていたキームスビィミーだが、小林稔調教師のバックアップ、さらにその実質的な弟子に当たる小野幸治騎手とのタッグで、1戦1戦を大事に走り、やがてスターダムへとのし上がっていった。1971年春に条件戦を3連勝した彼は、通算9戦目の水無月H(阪神芝2200m)こそ不良馬場に祟られ5着に終わったものの、次走を好時計で快勝。同年7月にはキャリア11戦目にして初の重賞挑戦と相成った。中京・金鯱賞(芝1800m)がそれだ。デビュー戦以来に飯田騎手が跨ったこの一戦こそ前走ダービー4着の4歳馬スインホウシュウの4着に敗れたが、3ヶ月の休養を経て10月の嵐山特別(京都芝2200m)を同父のショウフウミドリに3馬身差つけて完勝。これで自信を深めた彼は、続く京都記念・秋(芝2400m)へと歩を進めた。

この頃の京都記念・秋はハンディキャップ重賞であった。実質的なハンデ頭は朝日チャレンジC連覇の牝馬ケイサンタの56kgだったが、同斤量には前走京阪杯勝ちの淀巧者タイセフト、そして前年春の天皇賞馬リキエイカンがおり、実績と斤量の比較から後者2頭が人気を集める情勢。そんな中、まだ条件級にしてハンデ55kgと見込まれたキームスビィミーは単勝2番人気(複勝は1番人気)に推されていた。

「他の馬との比較ではハンデは分が悪いようだが、良馬場なら勝ち負け」

戦前、小林師は記者の質問に対してこう胸を張った。6歳秋にして本格化した愛馬。ゆっくりと、しかし確実に醸成された彼の力に対する師の信頼は、秋晴れの良馬場においては大変厚かったのだ。

関ケ原で我が世の春の到来を祝った徳川家康のように、辛抱強いキームスビィミーは淀の地で鬨の声を上げた。1971年当時としてはトップクラスの上がり3ハロン35秒前後の差し脚には天皇賞馬も淀巧者も敵わない。最軽量49kgを利して粘り込みを図ったヤマニブルームに2馬身半差つけ、小野騎手とキームスビィミーは2分27秒5の好時計で2400mを駆け抜けた。

オールバックで強面な小林師と福々しい容貌の小野騎手が揃って顔をほころばせる。6歳の晩秋に咲いた花。只者ならぬ末脚。両目を開けた西の遅れて来た強豪。歓喜の勝利から25分後、東京競馬場では同期の女傑トウメイがスピーデーワンダー以下を撫で斬りにして天皇賞を制覇していた。それから1年後の将来、このキームスビィミーこそが“秋天の主演俳優”として立ち回ることになるのだが、ドラマの筋書きと結末は当時の誰もが知る由もなかった。

混戦に断を下したステイヤー

京都記念・秋の後は暮れの阪神大賞典(芝3100m)を使われたが、不良馬場に祟られて3着。菊花賞2着で自身を付けた若武者スインホウシュウに敗れ去った。苦い形で1971年を締めくくったキームスビィミーは、翌1972年の初戦となる3月のサンケイ大阪杯でも荒れた馬場に見舞われて8着惨敗を喫し、世間的な評価を落としてしまった。だが2戦とも敗因が馬場にあるのは明白。しかもサンケイ大阪杯ではハンデ頭となる57kgを背負わされていただけに、旧表記で7歳の牡馬を手掛ける小林師のトーンは落ちなかった。

さて、春の天皇賞である。前年の春の2冠馬ヒカルイマイ、そして菊花賞馬ニホンピロムーテーが揃って順調さを欠き、古馬戦線から離脱する当時の情勢(前者は再起できず引退)。菊花賞準優勝のスインホウシュウも脚元を痛めて休養に入り、セントライト記念勝ちの東の大将ベルワイドと、年明けから重賞3勝と好調が続く西のフイドールが5歳世代を引っ張っていた。一方の6歳世代はキームスビィミーと同じく小林厩舎でヴィミーの仔であるシュンサクリュウや、トウショウボーイの半兄トウショウピットが看板を張っていたものの、どうにもパンチ不足な感は否めない。

その上の7歳世代にはあのアカネテンリュウがいた。主戦騎手の丸目敏栄を病のため欠き、大舞台で惜敗を続けるかつての菊花賞馬は、同年4月に巻き起こった馬丁ストの影響もあって本調子にないと伝えられていた。また、前年の春天2着馬オオクラや有馬記念2着馬コンチネンタルも同世代のメンツに名を連ねていたが、いずれも決め手に欠けるタイプ。加えて近走不振ということもあって評価は低かった。

前年の年度代表馬トウメイがすでに競馬場を去り、共に天皇賞馬の7歳メジロアサマと6歳メジロムサシは出走不可能(1972年当時の天皇賞は勝ち抜け制)。しかも出走馬17頭中クラシックホースはアカネテンリュウのみという春の盾は、どこか混沌とした雰囲気が漂っていた。その空気を制し、史上初の7歳馬による天皇賞制覇を成し遂げるべく躍動したキームスビィミーだったが、結局混戦に断を下したのは1番人気ベルワイドであった。“闘将”加賀武見騎手を背に逃げを打ち、淡々とした流れを作り出したこの本命馬は、直線で一旦キームスビィミーに並ばれたもののゴール前で再び伸びて突き放した。ベルワイドを追い掛けた馬たちは一様に疲弊し、キームスビィミーから4馬身後ろの3着に敗れたアカネテンリュウは左前球節炎のため引退に追い込まれる始末だ。こうして1972年の春天はベルワイドの逃げ切りで幕を閉じた。ちなみにベルワイドはキームスビィミーの近親に当たる馬で、母父がAuribanであるのも同じである。

日本レコードの豪脚

1972年のキームスビィミーは前年と同様に順調に出走を重ねることが出来た。不良馬場の宝塚記念は上がり馬ショウフウミドリの4着、続く飯田騎手に乗り替わった高松宮杯(中京芝2000m)は6着と敗戦を繰り返したが、夏を越えて出走した10月のハリウッドターフクラブ賞(現在の京都大賞典)の内容は白眉であった。一昨年の菊花賞2着馬タマホープ以下を上がり3ハロン34秒台後半(推定)の脚で2馬身差つけて完封して見せたのだ。芝2400mの日本レコードとなる2分26秒6をマークした重賞2勝目は、この遅咲きの7歳馬に自信をみなぎらせるには十分であった。

「良馬場ならいつだってこれくらいの切れはあるんだ」と小林師も愛馬を称え、口取り式には小野騎手をはじめとした関係者たちの笑みが躍っていた。2分26秒6の勝ちタイムは、4年後の京都記念・秋にてエリモジョージが2分25秒8をマークするまで同距離の日本レコードとして輝き続けた。まさに完勝。ヴィミー産駒らしからぬ切れ味を携えていたキームスビィミーは、大器として一応の完成をみた。

前走ハリウッドターフクラブ賞の内容が評価され、秋の天皇賞(東京芝3200m)においてキームスビィミーは1番人気に支持された。春の活躍馬が軒並み姿を消し、やはり混戦模様となった秋の盾。レースはオウジャの落馬と、もう1頭のヴィミー産駒パッシングゴールの大逃げという人気薄2騎の賑やかしで幕を開けた。片や小野騎手とキームスビィミーは好位に付けて準備万端といったところ。しかし馬群の後方で虎視眈々とタイトル奪取を狙う馬が1頭。通算39戦目の6歳馬ヤマニンウエーブと、“天才”福永洋一騎手であった。

天才が放った痛恨の一撃

前半1000mは1分1秒3と、新田幸春騎手(後に松田に改姓)が跨るパッシングゴールは見た目通りかなり厳しいペースで逃げている。やがて3コーナーでコンチネンタルが故障、続く4コーナーではキクノハッピーがやはり故障を発症し(共にレース後死亡)、3番人気タマホープが馬群から大きく遅れた。パッシングゴールが未だ逃げ粘る直線。東京競馬場をある種異様な空気が包んでいた。

本命馬キームスビィミーや2番人気カツタイコウが逃げ馬を追い掛けたが届きそうにない。パッシングゴールがまんまと逃げ残りを図るゴール前、道中死んだふりをしていた7番人気ヤマニンウエーブが外から追い込んできた。福永騎手と新田騎手、それに人気2頭を加えた追い比べを制したのは、今の今まで“ジリ脚”のレッテルを貼られていたヤマニンウエーブであった。以下パッシングゴールとカツタイコウが順番に上位入線を果たし、キームスビィミーは4着に敗れ去った。またしても逃げ馬に翻弄される結果。才気溢れる彼は2度に渡って涙を呑んだ。

この天皇賞を駆けた各馬が負ったダメージはなかなか大きかった。上位3頭は以降勝ち星を挙げられず引退。そして後塵を拝したキームスビィミーもそれに準じた。レース後に利き脚を痛め、1年以上治療に専念したものの復帰は叶わなかった。20戦して10勝。尊い記録と記憶、且つ非凡な戦績を残したキームスビィミー。彼は天下獲りを果たせないまま、1972年秋の天皇賞を最後にターフを去った。

謎多き後半生

キームスビィミーは1974年の春に種牡馬入りしている。高い素質を評価された形と言えそうだが、繋養地は京都府にある乗馬クラブであったという。当然のことながら交配相手には恵まれず、彼が生涯で数頭残した産駒の中から中央競馬での勝ち馬は現れなかった。

ジャパン・スタッドブック・インターナショナルによると、キームスビィミーは1991年に用途変更されている。だが山野浩一「サラブレッド血統事典(1989年発行版)」には「1981年(用途)変更」と記載されており、事実関係に矛盾があるようだ。恐らくは実質的な種牡馬引退年が1981年で、種牡馬登録を抹消されたのが1991年ということなのだろうが、繁殖記録を調べてみると1989年春まで種付けの記録が残っているようで、そのお相手は何と実の娘のミスメイオウ(!)である(不受胎)。しかもミスメイオウには1986年にも種付けしたとあり、翌年同馬は流産している。世にもおぞましい話であるが、1980年代の話であるから紙媒体での記述を書き誤った可能性もあり、実際のところどうだったのかは判然としない。

キームスビィミー -KIMUSU VIMY-
牡 鹿毛 1966年生 1991年用途変更
父ヴィミー 母オベイド 母父Auriban
競走成績:中央20戦10勝
主な勝ち鞍:ハリウッドターフクラブ賞 京都記念・秋