マイネルブレーブ

人的背景、そして血統的背景から“雑草”という表現がぴったりハマったマイネルブレーブ。安馬が中心だった初期のマイネル軍団の快作である。

犯罪皇帝の愛息が歩んだダービーへの道


哀しき父

師走の有馬記念でパンピーがどれだけ盛り上がろうが、競馬関係者が最も獲りたいG1は日本ダービーである…というのはよく言われること。かのウィンストン・チャーチルが発した(とされる)名言を引用するまでもなく、ダービーの価値が重いのは分かっているつもりだ。例えばアイネスフウジンの小林オーナーの自殺、フサイチコンコルドの関口オーナーの後の凋落、あるいはラフィアンの岡田繁幸総帥を見ると、日本ダービーの栄光の裏表が理解できることだろう。

ダービーの価値が重いのは馬にとっても同じ。日本ダービーを勝った後に燃え尽きた馬は数多いが、歴代ダービー馬で種牡馬入りできなかったのは、現役中に死亡した馬以外では1944年の勝ち馬カイソウのみ(現役馬を除く)。弱い弱いと言われ続けたオペックホースやワンアンドオンリーですら種馬になっている。生産地における需要の有無に関わらず、競馬関係者の認識としては2歳G1やダートG1とは比べ物にならないほどの価値を持っているのが日本ダービーなのである。

ところで、「弱いダービー馬」として比較的多く名前を挙げられる馬にクライムカイザーがいる。オイルショックの最中の1973年に生まれ、1976年クラシック戦線においてTTGとしのぎを削った真っ黒い馬だ。そして世間では、その馬名と加賀武見騎手のラフプレーによってトウショウボーイを2着に沈めた日本ダービーにちなみ「犯罪皇帝」というニックネームで呼ばれている。加賀騎手の乗り方の善し悪しはさておいて、戦績的にもう一つパンチに欠ける馬であったことは事実。それだけに不本意な形でとは言えど、ダービー馬となり種牡馬入りの道が開けたのは同馬にとって幸運であったのだ、と筆者は思う。

だが、1977年の宝塚記念を最後に現役を退き静内の光伸牧場で種牡馬入りしたものの、この「犯罪皇帝」の子供たちが競馬場で勝利を挙げる機会はほとんど訪れなかった。元々種付頭数が少なかったのも要因の一つだが、中央競馬どころか地方競馬ですらこれといった活躍馬を出せず、やがて種牡馬クライムカイザーは生産現場のトレンドから大きく外れていった。今回の主人公であるマイネルブレーブは、ダービー馬クライムカイザーが送り出した最初で最後の中央競馬での勝ち馬であり、中央重賞ウイナーである。

ラフィアン2期生の誇りにかけて

クライムカイザーが府中にて戴冠してからちょうど10年後の5月、その産駒の1頭が三石の米田正博牧場で生を享けた。後のマイネルブレーブである。予定より1ヶ月遅れて産まれたこの鹿毛の牡馬の母はブレーブドーターという名で、1991年春に死ぬまで15頭の産駒を残したタフな繁殖牝馬であった。仔馬は産み落とされて25分ほどで歩き、大人ぶった表情を見せたという。

生産者の米田正博氏はブレーブドーターにクライムカイザーを掛け合わせた理由について後にこう語っている。

「マンノウォー系独特のタフで粘り強い馬が欲しかったんだ。それにクライムカイザーはヴェンチアに何から何までそっくりだという話を聞いたので、確信を持って配合した」

ちなみにブレーブドーターは1983年にホワイトフォンテンを父に持つ牡駒を産んでいた。長じてアサカフォンテンと名付けられたこの馬は、中央でデビューして新馬戦から2連勝。ダイナコスモスが勝った皐月賞で5着に入るなど活躍し、良駒に恵まれなかった父の代表産駒となった。しかし、4歳(旧馬齢表記)秋に脚部を故障して早期引退に追い込まれている。アサカフォンテンに対する米田氏の期待は大きく、まだ仔馬の頃に「私はこれでダービーを獲るぞ」と周囲に吹聴していたほどだったという。

しばらくして、マイネルブレーブは岡田繁幸氏に見出され、勃興期にあったラフィアンターフマンクラブの第2期生として募集馬のラインナップに加わった。近親に1974年の桜花賞馬タカエノカオリもおり、マイネルブレーブはよく言われているような全くのマイナー血統というわけでもなかった。とは言え母の父ボンジュールはハードツービートらと同系の無名の種牡馬で、母母父が素軽さに欠けるタリヤートスだから現代的な血統背景とは到底言えない。何より父クライムカイザーは中央競馬で勝ち馬を出したことのない種馬である。玉石混淆とした日高の小牧場の幼駒たちの中から、時代のトレンドに逆行した血統背景を持つマイネルブレーブを見出した岡田繁幸氏の相馬眼には、やはり平伏せざるを得ない。

気鋭の2世調教師、逝く

マイネル軍団入りし、静内のビッグレッドファームで鍛えられたマイネルブレーブは、やがて美浦の中村貢厩舎へ入った。中村貢調教師は1988年当時の美浦トレセンの重鎮で名伯楽として知られた中村広調教師の長男に当たり、関東期待のホープの1人であった。

この年の10月、東京開催の初日の新馬戦(芝1400m)でマイネルブレーブはデビューしたが、仕上がり途上なのもあって中位ままの6着に敗退。だが千六に距離を延ばした折り返しの新馬戦でドースクダイオー(後のスプリングS2着馬)以下を6馬身ちぎって勝ち上がった。勝ち時計1分36秒5は同年の東京開催3歳戦の最速タイム。それを「まだ8分くらいのデキ(中村貢師:談)」で出したのだから末恐ろしかった。鞍上はこの年のリーディングトップを突っ走る柴田政人騎手が務めた。

世間的にはまだ「あのクライムカイザーの仔が勝ち上がった」という好奇の目でしか見られていなかったマイネルブレーブだが、関係者の期待は日を追うごとに膨らんでいた。そんな時に思わぬ事態が発生する。

「11月21日、中村貢調教師(45)急死」

死因は心筋梗塞であった。オープン特別の府中3歳S(東京芝1800m)を5日後に控えていたマイネルブレーブはすぐに師の父・中村広師の元へ転厩。予定通りレースに臨んだが、良血馬サクラホクトオーのレコード駆けに屈し2着に敗れた。続くホープフルS(オープン特別・中山芝2000m)では柴田騎手が病欠のため2年目の武豊騎手に乗り替わり。同日メインの有馬記念に出走するスーパークリークの前座として走ったが、先行したワンダーナルビーを捉まえ切れず3着まで。オープン級の力を見せながらも、1勝馬の身分で1988年を終えた。

ちなみに、同年の朝日杯3歳Sはサクラホクトオーが完勝。西の阪神3歳Sの勝ち馬ラッキーゲラン(その後故障)と比較してもスケールの違いは歴然としており、「ダービーはこの馬で決まり」との声も上がった。トウショウボーイ産駒のサクラホクトオーと、クライムカイザー産駒のマイネルブレーブ。府中3歳Sの結果を見るに、現状は力量の差が感じられた。この2頭が翌年の日本ダービーで人気上位馬として相対するという未来は、まだ一部の好事家の目にしか見えていなかったようだ。

色気を見せた老伯楽

年が明けて1989年。中2週でG3・京成杯(中山芝1600m)に出走したマイネルブレーブだったが、勝ったスピークリーズンと僅差の3着に敗れて収得賞金追加に失敗した。道中最後方からの競馬でアタマ、クビの差なのだから実力は十分。とは言え若い割にどうもズブさが解消されず、不器用さも相まって小回りで直線の短い中山競馬場は明らかに不向きなようだった。

「次はダートの自己条件を使おうか…」中村広師は考えた。ふと2月半ばのG3・共同通信杯4歳S(東京芝1800m)の想定に目をやると、意外とメンバーの力量が軽く見える。加えてマイネルブレーブにとって府中芝の中距離は好条件だ。広いコースと長い直線で不器用さがカバーできる…。

カミノスミレ(当ブログの第10話参照)で制覇した1982年春の目黒記念以来、重賞勝ちから遠ざかっていた老齢の名伯楽は久々に色気を見せた。共同通信杯に登録されたマイネルブレーブは中間びっしりと乗り込まれ、レース当日の彼の馬体重はデビュー時の486kgから12kg減の474kg。明らかに勝負気配であった。

胸を撫で下ろすトレーナーと、先を憂うジョッキーと

共同通信杯4歳S当日。府中の芝の様子は80年代の冬のそれらしく茶色に枯れており、ボコボコした時計の掛かる馬場だ。朝日杯3歳S5着馬のアイネスボンバーが1番人気に推されていたが決して絶対的な存在ではなく、4番人気のマイネルブレーブにも十分可能性が感じられるメンツであった。

スタートを無難に決め、柴田政人騎手に導かれたマイネルブレーブは3番枠から中団に控えた。レインボーアンバーが馬群を引っ張る展開だが、ペースは決して早くない。3コーナーに達すると、柴田騎手は外目へ持ち出して進出を図る。すると4コーナーで一気に馬群がばらけた。その間隙を突いたマイネルブレーブは、馬場の真ん中に突っ込んで人気のアイネスボンバーの後ろに付け、いよいよ射程圏内に収めた。

府中の長い直線。鞍上のアクションに応えたマイネルブレーブは人気馬の左横を突っ切る。やがて逃げ粘るレインボーアンバーをも内から捕まえると突き放しに掛かった。だがレインボーアンバーもしぶとい。逃げ上手の増沢末夫騎手が追うと反応して頑張る。外からアイネスボンバーもグイッと伸び、結局3頭の激しい追い比べになった。半馬身ほど抜けたマイネルブレーブが先頭でゴール板を駆け抜け、2着はレインボーアンバー。3着アイネスボンバーという結果だった。

「ひとまず責任が果たせたとホッとしています。遅ればせながら、この勝ち星が息子のいい供養になりました」

中村広師は言った。天国の息子に捧ぐ勝利、そして貢師が生前懸けたマイネルブレーブへの期待に応えることができ、広師は安心した様子だった。貢厩舎時代から受け継いだNMマークの緑のメンコが輝いて見えた。

一方、殊勲の柴田政人騎手のトーンは低かった。

「実力で勝ったというよりも、恵まれたなというのが実感ですよ。もう1回同じメンバーで走ったら、正直言って勝てる自信はない(笑)」

「まだまだ一線級を相手にするには力不足でしょうね」

この勝利以降「マサトがついにダービーを勝つのか…!」と世間は色めき立つわけだが、コメントを見るに当の本人は冷静であったようだ。そこは百戦錬磨の柴田騎手のこと、今まで騎乗してきたあまたの名馬と比べるどうにも物足りないという実感はあったのだろう。果たして、その感触は正しかったのかどうなのか。

きまぐれなダービーロードを歩む

府中の直線を制し、1989年のクラシック戦線に名乗りを上げたマイネルブレーブ。しかし好事魔多し。3月に入ると挫石のアクシデントに見舞われ、調教を積めずに皐月賞を断念せざるを得なくなってしまった。

1989年クラシック世代と言えば大混戦、加えて“雨に祟られたクラシックロード”として後世に伝わっている。そしてその最大の被害馬は3歳チャンプのサクラホクトオーであった。尋常ではないレベルの極悪不良馬場となった弥生賞、生来の重下手で神経の細いサクラホクトオーが12着に沈み、3コーナーでマクったロマネコンテイが直線を前に外ラチへ向かってぶっ飛んでいくというハチャメチャなレースを大差勝ちしたのは、あのレインボーアンバー。片や3週後のスプリングSは血統的にダービーでは用なしのナルシスノワールが逃げ切り勝ち。2戦2勝の1番人気バリエンテーが9着惨敗という波乱の結果であった。肝心の皐月賞はスプリングSで3着に差し損ねたドクタースパートが不良馬場を利して制し、人気のサクラホクトオーは19着(完走馬中最下位)に沈んだ。生まれながらのエリートである3歳チャンピオンは、こうして泥にまみれて争覇圏外へと消えていった。

代わって浮上してきたのがウィナーズサークルだ。このシーホーク産駒の茨城県産芦毛馬は、ダート戦で我慢を覚えて2勝を挙げ、皐月賞の出走枠に滑り込むと鋭い末脚で勝ち馬と半馬身差の2着に食い込んで見せた。血統的に距離延長は大歓迎。加えて手綱を取る“剛腕”郷原洋行騎手は何とも頼もしかった。

一方のマイネルブレーブは5月初めのG2・NHK杯(東京芝2000m)出走へと何とかこぎ着けた。しかし状態は明らかに仕上がり途上。それだけに人気は8番手と低かったのだが、不利な大外枠から道中はシンガリ追走、おまけに不良馬場という厳しい条件を強いられながらも、直線で豪快に伸びて逃げたトーワトリプルの3着に健闘した。着順こそ前走より下げたとは言え、地力を見せつけた、とても内容の濃い3着と言えた。

その1週前の青葉賞(当時はオープン特別)はスプリングSシンガリ負けのサーペンアップが制していた。世に言う1989年5月28日の「戦国ダービー」。皐月賞馬ドクタースパートは輸送で大きく馬体重を減らし、3歳チャンプ・サクラホクトオーも本調子にない。こうなると存在感を高めるのが新興勢力だが、前売りの1番人気に推されたのは、何とマイネルブレーブであった。

刀折れ矢尽きた戦国ダービー

クライムカイザー産駒による「ダービー馬はダービー馬から」を信じたのか、鞍上の柴田政人騎手の悲願のダービー制覇に夢を託したのか、はたまた当時マスコミの注目度を高めていた岡田繁幸氏にあやかったのか…いくらでも理由付けは出来るが、レースぶりが如何にもダービー向き、且つ状態が上昇気配だったというのが実際の人気の理由であろう。個人的には「前年7月公開の映画「優駿」の登場馬オラシオンにプロフィールがダブった」という説も推したいが(原作のオラシオンはマンノウォー直系の青毛馬という設定)、毛色が違うし何よりそう理由付けしている文献を私は今まで読んだことがない。

戦国ダービー当日の1番人気は若草Sまで3連勝中の良血関西馬ロングシンホニーとなり、マイネルブレーブは結局2番人気に落ち着いた。G1勝ちのあるドクタースパートが4番人気でサクラホクトオーは5番人気なのだから、随分買いかぶられたものだと言えばそうだろう。

真っ先にゴールインし、凱歌を上げたのは3番人気のウィナーズサークルであった。新潟3歳S勝ちのマイネルムートが露払いを買って出るも、道中かなりのスローペースとなったこの1戦。3コーナーから追い上げたマイネルブレーブは伸び切れずに0.9秒差の7着に終わった。夢破れた柴田政人騎手は「追い切りがあと1本出来ていれば…」と中間の頓挫を悔やんだ。サクラホクトオーは9着敗退。またしてもクライムカイザーはトウショウボーイに先んじたわけだが、それを指摘する者は誰もいなかったことだろう。柴田騎手が日本ダービーを制覇するのは4年後のこと。一方、岡田総帥のダービー制覇は29年を経た今も達成されていない。

日本ダービーの原罪

日本ダービー7着の後、マイネルブレーブはビッグレッドファームへ放牧に出された。秋の大一番・菊花賞を目指して調整される予定だったのだが、美浦に帰厩してまもなく右前脚の中スジを痛め温泉放牧へ。そのままターフへと戻ることはなかった。父クライムカイザーの夢、オーナーの岡田総帥の大望、そして中村広師と故・貢師の父子鷹の挑戦は僅か8戦で幕を閉じたのだった。

引退後は乗馬としていくつかの施設を転々とした後、千葉県の富里ホースパークにて10年近くの間繋養された。やがてクライムカイザー(2000年死亡)に遅れること9年後の2009年8月、新表記23歳で死亡している。

宿願であるダービーに挑むために生まれてきたような人的背景と血統的背景を持つマイネルブレーブが、ダービーが終わると燃え尽きたのは必然だったか。勝者も敗者もそれぞれ重荷を背負うのが日本ダービーであり、その理は今後も競馬が続く限り変わることはないだろう。悲しいやら、美しいやら、勝ちたいやら、である。

マイネルブレーブ -MEINER BRAVE-
牡 鹿毛 1986年生 2009年死亡
父クライムカイザー 母ブレーブドーター 母父ボンジュール
競走成績:中央8戦2勝
主な勝ち鞍:共同通信杯4歳S