遥かなる浪漫と差し迫った現実の狭間に生きる
競走馬やジョッキーに関して個人的な感傷とかロマンチシズムをたたえて熱っぽく語り下ろす、いわゆる「推し活」の対象物として競馬が好まれている昨今。天皇賞馬テンメイはそういった新たなタイプのロマン派にとって好物になり得る存在かもしれない。もっとも、テンメイの現役当時……1970年代後半にはすでにその手のオタク系競馬ファンは少なからず存在していた模様であり、その頃の『優駿』誌上にはある女性ファンがトウメイ&テンメイ母仔について新選組の隊士と絡めた熱い文章を投稿していたりする。同記事の熱量たるや思わず顔をそむけたくほどだが、ファンにそれほどの熱量がなければ「トウメイの血を守る会」や「テンメイを守る会」が現実世界で行動を起こしたりはしないだろう(詳しくは後述)。
テンメイが秋の天皇賞を制覇したのは1978年のこと。その頃の世の中の風潮と2024年現在の風潮は異なる部分が多々あるので、テンメイの生涯を今現在の認識をもって振り返ろうとするとやや無理が出てくる。例えば、昨今は地方競馬の人気が高まっているため、中央の活躍馬の地方転出についてのネガティブな意見は(少なくとも大っぴらには)言いづらくなっている。それはSNSによってマイノリティ側の声が実態以上に増幅されて聞こえるという事情もあろう。だがテンメイの現役時代には天皇賞馬の岩手移籍など考え難く、それに対する反発はかなりのものがあったという。1990年代に出版されたある書籍では、岩手時代のテンメイについて「過去の栄光だけのぬけがらのような」なんて酷評されているが、これは出版当時にしても言葉が悪すぎる。ともかく、推したい馬について妄想を膨らませたり行動について考察するのは勝手だが、それを考える上では現役当時の環境や世間の風潮について気に留めておく必要があると私は思っている。
テンメイの物語は前半のできすぎた立志伝と、後半の北方での奮闘と静かな余生に分かれる。長々と記事を書く上で、これほど明快で起伏に富んだストーリーを携えた名馬も珍しい。その一生を例えるならば、岩手・平泉を脱出してモンゴルへ渡りチンギス・ハンになったという伝説がある源義経のようである。この「テンメイ=源義経」説は何かとハマりすぎていて我ながら笑ってしまう。しかし、実際に世話をした周囲の人間からすればそういった妄想ストーリーはファンの勝手であるし、目の前の物事をこなしていくのが先決。それに馬自身に至っては物語を演じている意思などないのが当たり前だ。今時のファンは馬をやたらと擬人化し、自分たちの想いを押しつけようとするが、そういったオタクの考えは競馬関係者の思いと乖離しているということを今一度考える必要があるだろう。
テンメイは1974年4月、苫小牧の藤沢牧場にて誕生した。藤沢牧場は母トウメイが幼駒時代に育成を施された場所である。現役時代に天皇賞や有馬記念を勝った女傑トウメイは元々オーナーの近藤克夫氏が設立した幕別牧場で繁殖入りする予定だったのが、折からの馬インフルエンザの大流行により馬の移動が困難になると憂慮されたため、種牡馬の大多数がいる日高地方から地理的に離れている幕別牧場ではなく、幼少期から縁ある藤沢牧場でまず繁殖入りしたという事情があった。ちなみに、初仔のホクメイと2番仔のテンメイを生んだ後にトウメイは幕別牧場へ移動し、1997年に31歳で大往生を遂げるまで当地で過ごしている。父はルイスデールという当時の新種牡馬であり、同馬は名馬リボーのおいに当たる。かつて「日本の馬場に合う」と好意的に評されることがままあった伊ダービー勝ち馬であるが、天皇賞馬テンメイとその全兄で道営移籍後に道営記念を制したホクメイ以外に本邦ではさしたる産駒を出せずに終わった。トウメイの種付け相手としてルイスデールが選ばれたのは、近藤氏いわく「未知の種馬には夢があっていい」といった理由からだという。
現役時代「ネズミみたい」と形容されたトウメイの子供たちは、何が父でもやはり体が小さく出やすく、ホクメイが去勢されたように気性が難しい仔も多かった。幼駒時代のテンメイも例に漏れず小さかった。良血馬だけに体のバランスは良いが他の幼駒と比較するとどうしても貧弱に見え、牧場を訪れた人間のうち何も言わずにトウメイの仔だと見分けがつく者はいなかったという。だがとにかく健康な馬ではあって、獣医の世話には一度もならなかったともいう。それに気性もおっとりしていたらしく、このおとなしい気性こそが後々天皇賞における金星を生むことになる。テンメイは母と同様に近藤氏の持ち馬となり、長じて栗東の坂田正行厩舎へ入った。
1976年11月の新馬戦でデビュー。緒戦から母がお世話になった清水英次騎手が手綱を取ったが、2番人気の4着。初日が出たのは3戦目のことだった。後に坂田調教師が「長い距離に強いのではなく、長い距離しか走れない馬」とコメントしたほどの真正のステイヤーであり、番組編成上長距離戦の少ない早い時期の下級条件では苦戦した。加えて良血故に人気が先行し続けたが、それでもダートの中距離戦でコツコツと入着を積み重ねて、翌1977年7月に2勝目をマークし、10月には3勝目を記録。この3勝目の600万下条件戦は京都ダート1800mの距離条件だったが、レコード勝ちだった。この後中1週で出走した清滝特別で久々に芝を使い、1番人気に応えて勝利。これで16戦4勝とし、11月半ばの三冠最終戦・菊花賞へとどうにか間に合わせた。2着・3着・4着がとにかく多く、ここまで掲示板を外したのは1回だけだった。
菊花賞では田島良保騎手に乗り替わったが、格下の9番人気ながら思わぬ好走を見せる。1977年クラシック世代は三冠競走へ出走する権利がなかった持込馬マルゼンスキーが後に最強と呼ばれたように、上のTTG世代と比較すると小粒なメンツであり、菊花賞戦線も混沌としていた。そんな中で中心視されたのはダービー馬ラッキールーラで、同馬は良血且つ雄大な馬格を誇る、名門・尾形藤吉厩舎所属の言わばエリート。対抗視されたプレストウコウは春にNHK杯勝ちがあり、秋はセントライト記念と京都新聞杯を連勝。この実績ならば例年人気になるところだが、父親がグレイソヴリン直仔のスプリンター・グスタフであったことから、血統を根拠に3000mの長丁場について懐疑的に見られていた。この2頭が単枠指定で、長距離上手の「名人」武邦彦騎手が駆る素質馬マーブルペンタスが間に割って入る2番人気に推された。以下、ダービー3着の実力派カネミノブ、オールカマーで古馬相手に2着と健闘したメグロモガミ、「天才」福永洋一に望みを託すホリタエンジェル、西の2歳王者にして鋭い末脚が武器のリュウキコウと続いた。
皐月賞馬ハードバージも、実質的な世代最強馬マルゼンスキーもいない菊花賞。テレビ馬の役割を担った九州産馬オサイチセイダイが捨て身の逃げを打ち、先行力を活かしたい本命馬ラッキールーラは出鼻をくじかれる格好になる。展開はせかせかと流れ、テンメイやプレストウコウは道中中団で末を温存。レースが動いたのは3角。淀の坂下でラッキールーラがようやく先頭に立ったが、すでに手応えが怪しい。そこに外から被せたのがメグロモガミとテンメイだった。ここまでの厳しい流れを考えるとやや早仕掛けな印象もあったが、彼の豊富なスタミナを活かすという意味では悪くない。坂を下ってテンメイが先頭をうかがう勢いで上昇する。やがて直線に入ると内で粘り込みを図るメグロモガミをテンメイが外からねじ伏せようと頑張る。関西テレビの杉本清アナウンサーが絶叫する。「テンメイ先頭! テンメイ先頭! トウメイが待ってるぞ!」母のトウメイが2着だった1969年の桜花賞が自身の八大競走初実況とあって、杉本アナは人気薄のはずのテンメイに特に肩入れしていたという。しかし杉本アナの絶叫もむなしく、距離不安をささやかれた芦毛のプレストウコウが無情にも大外から交わしていった。真正ステイヤーの面目躍如、しかしながら悔しさの拭えぬ菊花賞準優勝だった。
殊勲の2着の後、平場オープン3着を経て暮れの阪神大賞典で3歳馬最先着の2着と改めて力量を示したテンメイ。しかし翌春はやや停滞し、サンケイ大阪杯8着、マイラーズC2着と順調に使われながら大目標の天皇賞はコズミから自重した。純然たるステイヤー且つ叩き良化型なのは間違いなく、同年秋はまず平場オープンを2回叩き、満を持して東上した。11月26日の天皇賞。1978年当時はグレード制以前で、秋天の距離も3200mだった。不器用で小回りが苦手なだけに、広い府中の舞台は望むところだ。
本命視されたのは、重賞を連勝して再浮上してきた同い年の関西馬リュウキコウだった。以下、遅咲きの府中巧者・カシュウチカラ、着実に力を付けたカネミノブ、競走中止の春天の雪辱を果たしたいプレストウコウが続いたが、引退・死亡・勝ち抜け制のため出走権なしと最強5歳世代のTTGが不在であり、メンツは晴れの天皇賞としては貧弱な印象があった。それに次ぐ単勝5番人気のテンメイは重賞未勝利ながら良血と適性を見込まれた形。馬番は奇しくも彼の母トウメイが7年前に勝った時と同じ、大外8枠12番だった。
この1978年の秋の天皇賞は、中央競馬では非常に珍しいカンパイ(発走のやり直し)になった。パワーシンボリがゲートの前扉に噛みついたことが原因で同馬だけスタートできなかったがためのカンパイなのだが、他の各馬はゲートを飛び出して何百mか走ってしまった。そのため気性の勝ったリュウキコウやプレストウコウが興奮状態となり、不本意なアクシデントが人気馬の明暗を分ける形になった。スタート良く出たダンケンジがまず先頭に立ったが、1周目のスタンド前にてペースが落ち着いたところで完全に引っかかったプレストウコウが郷原洋行騎手の制御もむなしく暴走し、結果として大逃げを打った。3200mの距離でこれは無謀に近い。逃げ馬から大きく離れた2番手グループにはカネミノブらがつけ、しっかりと折り合ったテンメイは後方。そして人気のリュウキコウはシンガリ待機。3角に入ると馬群が一気に凝縮したが、プレストウコウの脚色は案外衰えない。直線に入ってもプレストウコウが先頭をしばらくキープしたが、残り200mほどで内からカシュウチカラが、片や外からはリュウキコウとテンメイが一緒に強襲。その3頭の中でも最もスタミナが残っていたテンメイが懸命に粘るプレストウコウと最終的に叩き合い、パートナーの清水騎手の激しい追いムチに応えて伸びたテンメイがプレストウコウを外からねじ伏せた。3着には最内から伸びたカシュウチカラが入り、1番人気のリュウキコウは末鈍く4着に終わった。
母のトウメイと同一馬主・同一厩舎・同一騎手(加えて同一厩務員でもあったという)による勝利。それに同じ馬番で着差も同じく半馬身。この偶然というか、いかにもできすぎた天皇賞制覇に対し、世のロマン派競馬ファンは特に沸いた。そのカウンターとでもいうべきか、あまりの熱狂に対して訝しがる声もあったという。ともかく、初の重賞制覇にして天皇賞制覇が叶ったわけだ。ところが、先に軽く触れたように当時の天皇賞は勝ち抜け制だったこともあり、長丁場が得意で小回りを苦手とするテンメイにとって目標とすべきレースがなくなってしまった。無論、1978年当時は適鞍を求めて容易に海外へ打って出られるような時代ではない。そこら辺、競馬ゲームのように上手くはいかないのだ。同年暮れはグランプリ・有馬記念には出走せず、1週後の阪神大賞典に出走して6着敗退。このレース選択にはファンの間でも議論が紛糾したと言われる。1978年は古馬も3歳も傑出馬がおらず、優駿賞年度代表馬の記者投票も“該当馬なし”が最多得票になるという異常事態を生んだ(結局有馬記念勝ちのカネミノブが受賞)。
大一番を勝ってしまったが故に、大目標なき5歳のテンメイ。翌1979年は春に4走して結果を残せなかったが、秋には重賞・京都大賞典をレコードで制した。この京都大賞典の内容はまさに白眉。残り200mほどでは絶望的な位置だったもののそこから一気の脚を使い、3歳のハシハーミットを降した。ハシハーミットは次走・菊花賞を制覇するのだから、後から振り返れば価値ある勝利であった。天皇賞馬の5歳秋とあって種牡馬入りへの道が模索され、同年暮れの有馬記念(グリーングラスの7着)がいよいよ彼の花道になるはずだったが、種牡馬として購買する予定だった日本中央競馬会がテンメイの代わりに1歳上のグリーングラスを買うことになり、夢はふいになった。ここに来て馬格の小ささとスピードのなさがアダに。スピード競馬の黎明期とは言えど、いくら良血でも純ステイヤーでは需要がないのは現在の競馬界と一緒である。
競馬会に裏切られ、生産地からのラブコールの声が皆無であったテンメイは、6歳になった翌1980年も走り続けた。とは言え、前述したように彼にとっての適鞍などもうなく、大目標がないから成績も上がらない。そのうち、藤村稔という人物が「宮城で種牡馬にする」という約束で売らないかとトレード話を持ちかけてきた。テンメイの関係者はこれに応じ、代金として1000万円を支払った藤村氏の持ち馬になった。新聞をはじめとした当時のマスコミでもテンメイの引退・種牡馬入りが報じられたのだが、今度こそ引退の花道だと思われた宝塚記念(12着)から約1ヶ月が経過した7月になると、どういうわけか「テンメイが岩手競馬で走っている」という話が北から聞こえてきた。7月6日の盛岡9RのA1戦、このレースでかつての天皇賞馬テンメイが勝ち星を挙げたというのだ。兄・頼朝に疎まれて岩手・平泉へ落ち延びた源義経のように、零落したテンメイは岩手競馬を頼って身を寄せる形となったのだった。
この事実にファンは再び紛糾した。前馬主の近藤氏や坂田調教師、および新馬主の藤村氏と新たに預託された水沢競馬場の村上初男調教師の元には一般のファンから抗議が殺到したという。活躍馬の地方移籍についての賛否の声は昨今も見受けられるが、テンメイのケースの騒ぎの度合いたるや2004年のダンツフレーム騒動の比ではなかったと思われる。そしてファンの抗議行動の動機として「天皇賞馬が草競馬で走るなんて」という岩手競馬に対する偏見に依拠した憐憫の情があるのは確実であった。騒動の前から存在した「トウメイの血を守る会」も「何とかしなくては」と行動を起こそうと試みた。しかし、実際問題合法な手続きを踏んで譲渡された競走馬を赤の他人がどうこうできるわけもなく、同団体が行動を起こすには至らなかった。結局女性しか会には残らなかったといい、その原因について作家の吉永みち子氏は「ロマンとヒューマニズムに関する男女の考え方の相違」を挙げている。だが一部の女性会員が分派した「テンメイを守る会」が藤村氏にコンタクトを取ったことで事態はにわかに動き出す。
会員が藤村氏を訪ねて宮城県気仙沼市へ行った結果、思いのほか同氏がテンメイに対して愛情をもって接する人物であることが分かった。それもあって、藤村氏と何度も接しているうちにお互い信頼関係が生まれていく。テンメイが中央競馬を去ってから幾年が過ぎ、結局100万円で譲渡の話がまとまった。続いて会員は北海道苫小牧市の藤沢牧場へと飛び、種牡馬テンメイの受け入れ先として話をつけた。そのためにはもう100万円必要だったが、会員一同が奮発して都合をつけたという。テンメイの正真正銘のラストレースは1982年8月の盛岡・シアンモア記念。手製の横断幕を持って応援に駆けつけた「テンメイを守る会」会員の見守るこのレースでいつもの通りに後ろから追い込み、同じく中央競馬で重賞を制した実績のあるテルノエイトの4着に敗れたテンメイは、翌月には生まれ故郷の藤沢牧場へ帰っていった。8歳の夏のことであった。彼の62戦の闘いの歴史は、こうして幕を閉じた。
テンメイが岩手競馬で戦った相手にはテルノエイトの他に、やはり中央上がりだったスリーパレードや、かつて菊花賞で覇を競ったマーブルペンタスなどがいた。1980年代前半は岩手競馬にとって一種の過渡期に当たり、スリーパレードやテルノエイトといった元中央の馬たちが天下を獲った後、少し間を置いて世に言う「SG時代」がやってくるのである。後のトウケイニセイやメイセイオペラ、あるいはトーホウエンペラーの登場への滑走路として、当地にて26走して7勝をマークしたテンメイの功績はたたえられるべきだろう。ちなみに桂樹杯や六華賞といった特別勝ちはあるが、重賞勝ちはない。けれども、岩手のグランプリに位置付けられる桐花賞では3年連続でファン投票第1位に推されるほど、人気や存在感はあった。重賞未勝利ながら合計で3000万円あまりを稼ぎあげたのだから、当時の岩手競馬の賞金水準は低くはなかったのだろう。テンメイを1000万円で購入した藤村氏もしっかりペイしたはずである。なお、岩手でもおっとりとした気性は相変わらずで、担当厩務員の子供を乗せて歩くこともあったらしい。しかしながら調教する立場からすると、その気性故に仕上げづらかったともいう。
故郷の藤沢牧場にて種牡馬入りしたテンメイだったが、さすがに牝馬は集まらなかった。生涯で残した産駒は合計30頭ちょっと。その中から活躍馬は出ず、トウメイから続く名馬物語は2代で断絶した。そして今後競馬場でテンメイの子孫を見かけることも恐らくはないだろう。引退から数年後には水沢競馬場が乗馬として引き取ろうかと持ちかけたというが、藤沢牧場側が「一生ウチで面倒を見るから」と言って断ったのだという。1993年10月に左前脚骨折のため安楽死。享年20(満19歳)。
テンメイの子孫のうち現役の競走馬はもういないが、母のトウメイの子孫はだいぶ先細りしつつもまだ残っている。11番仔トウホウのひ孫に当たるジュメーリイは2015年の高知・黒潮皐月賞を制しているし、その半弟モンゲートラオは2020年の大井・羽田盃にて5着と健闘したほか、翌年の帝王賞にも出走した(12着)。ロマンとリアル。競馬においてこの2つの概念は対立しがちだが、時として並立し得る要素でもある。「ロマンもドラマも、期待される側には重い十字架ですよ」とはトウメイとテンメイに先立って1989年に逝った近藤克夫氏の生前の弁。これが競馬関係者の本音ではあるだろうが、手厳しい本音を知っても知らなくても競馬ファンは都合のいいドラマを夢想するし、しばしばロマンを追い求めるのだ。
テンメイ -TEMMEI-
牡 鹿毛 1974年生 1993年死亡
父ルイスデール 母トウメイ 母の父シプリアニ
競走成績:中央36戦6勝 地方26戦7勝
主な勝ち鞍:天皇賞・秋 京都大賞典
投稿者プロフィール
- ミドサーの競馬愛好家。2019年、アーケード競馬ゲーム『StarHorse4』の開発に携わり、株券やレース解説のテキスト作成を行ったのが代表的なお仕事。そのほか、競馬予想SNS『ウマニティ』にライターおよび予想家として参画した経験がある。
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