平坦中京に父子は三度笑った
1991年生まれのテンザンユタカの戦績を調べてみて驚いた。彼女のキャリアは5歳3月に出走したG3・中日新聞杯12着で終わりを迎えるのだが、これで通算26戦。この26という数字だけでは何の変哲もない。だが、このうち古馬になってから走ったのは8戦のみで、残りの18戦は2・3歳時に記録しているのだ。これは1990年代当時にしても多い。現役時代酷使で物議を醸したサンエイサンキューだって17戦だ。それより1歳年上のイイデセゾンがキャリア22戦なので、上には上がいるとは言えるが、牡牝の違いもある。そのイイデセゾンにしても最後のレースの菊花賞で壊れてしまっている。
桜花賞7着、オークス17着、そして当時は3歳限定戦だったエリザベス女王杯13着と、牝馬三冠競走に皆勤。それだけではなく、東西の4歳牝馬特別とサファイヤS、そしてローズSとトライアル競走にも皆勤している。これらを含んで18戦したのだから、中身はかなり濃い。その上、夏も休まず小倉で連戦。440kg前後の華奢な馬体のテンザンユタカだったが、牝馬らしからぬタフさを備えていた。
テンザンユタカは後年の逃げ馬としての姿の印象が強いが、元々は逃差自在に近い脚質だった。3勝目をマークした1994年1月の紅梅賞では、出遅れながら末脚を伸ばしてシャイニンレーサーらを撃破している。それがレースを経るに連れて気難しさが表面化し、馬群を嫌ったり、道中折り合いをつけられなくなっていった。そのため、3歳秋緒戦に選んだG3・サファイヤS(この年は中京芝2000m)へと臨むにあたって、管理する松永善晴調教師と主戦の松永昌博騎手は逃げ戦法を試みようと案じた。
年若い競馬ファンにとって、1995年を最後に廃止された「サファイヤS」という重賞名は聞き慣れないだろう。前述の通り、1994年当時の3歳牝馬戦線の3冠目はエリザベス女王杯(当時は京都芝2400m)であった。そのエリザベス女王杯が現在と同じく11月半ばに施行されており、現行の秋華賞の時期にはG2・ローズSが、そして現在のローズSの時期にサファイヤSが収まっていた。その他、9月下旬か10月初めにG3・クイーンSがあって、関東のエリザベス女王杯トライアルとして現行の紫苑Sのような役割を果たしていたのである。
サファイヤSの歴代勝ち馬には、ともに桜花賞馬であるシャダイソフィアとダイアナソロン、後にイクノディクタスと並び称される強豪ヌエボトウショウ、そして冒頭で名前を挙げたサンエイサンキューなどがいる。それなりのメンツと言えるが、エリザベス女王杯と重賞連勝した馬は存在しない(ただし、1984年の2着馬キョウワサンダーが本番を制している)。本番との関連性はもっぱら薄く、ここを叩いてローズSを使ったり、はたまた本番に直行して距離の壁にぶつかるのが常であった。
この1994年のサファイヤSは、オークス馬チョウカイキャロルが秋の始動戦に定めていた。オークス馬がサファイヤSに出走するパターンは珍しく、1989年のライトカラー以来3頭目であり、そして最後の例になった。加えて、オークス2着馬ゴールデンジャックと桜花賞2着馬ツィンクルブライドが秋緒戦として出走してきた。9頭立てのG3としては豪勢なメンバー。施行年によってはとても寂しいメンツになったサファイヤSも、この年ばかりは熱戦が期待できそうだった。
立派な勲章こそ持ち合わせていないが、格下の上がり馬たちよりは実績があるテンザンユタカは、単勝オッズ14.1倍の4番人気であった。1番人気はもちろんチョウカイキャロル。それも単勝1.3倍の一本かぶりである。時として紛れのある秋のトライアル競走とは言え、「オークス馬で仕方なし」の空気が漂った。
レース直前、気性の激しいツィンクルブライドが暴れて外枠発走に。やがてゲートが開くと同馬は出遅れてしまった。波乱のスタートと相成ったが、作戦通りにすんなりと行けたのがテンザンユタカ。2歳時以来にハナを切った彼女は、松永騎手を背に淡々と逃げて1分2秒1のスローペースを作り出した。一方のチョウカイキャロルは番手の内で貯めて、その外からゴールデンジャックがマークするという展開。しかしこうなると人気2強は動きづらい。先に動いて逃げ馬を潰しに行った方が逆に苦しくなる難儀な展開である。小回りでほぼ平坦な当時の中京コースを利したテンザンユタカは4角でもハナを譲らず、そこから二の脚を使ってまんまと逃げ切ってしまった。本命馬チョウカイキャロルは1馬身3/4差の2着。そして堪えきれずにコーナーで先に動いたゴールデンジャックは、さらに3馬身半遅れて3着に敗れ去った。
義理の父子である松永善晴師と松永昌博騎手は揃ってサファイヤS3勝目。このコンビ、特にテンザン冠の馬では1991年のテンザンハゴロモ以来となる同重賞制覇であった。こうなるとエリザベス女王杯が楽しみになるが、松永父子は異口同音に「距離が苦しい」とトーンが低かった。父サクラユタカオー由来の素軽さは強みであり、同時に弱みにもなり得る。それに夏使ったのも今回は大きかった。せっかく休み明けの強豪を倒したとは言えど、サファイヤSの位置づけとはそういうものであった。
初めて重賞タイトルを得たテンザンユタカはこの後ローズS→エリザベス女王杯と連戦したが、いずれもヒシアマゾンに屈して4着・13着に敗れた。ローズSではハナを切るも力負けという内容。肝心のエリザベス女王杯はバースルートの大逃げを2番手から追走する競馬になり、持ち味を活かせずに終い苦しくなった。一度降したチョウカイキャロルが女傑ヒシアマゾンとハナ差の激戦を演じた遥か後方で、テンザンユタカは38秒3の鈍い上がりでゴールインした。
ここまで17戦を力いっぱい走ったテンザンユタカだったが、通算18戦目となる12月のG3・愛知杯(当時は牡牝混合の父内国産馬限定戦)を制したのは嬉しい誤算であった。52kgのハンデに恵まれながらも、競合し得る逃げ先行馬が多数いるメンバー構成から軽視されていたのだが、人気どころのイブキファイブワンとメルシーステージが絡むアクシデントのどさくさに逃げ切ってみせたのだった。「何も競ってこない楽な展開だった。後ろでいろいろあっただけに、運が良かったんだね」とは松永騎手の弁。松永父子のコンビは同年7月にあのナイスネイチャで高松宮杯(当時は中京芝2000mのG2競走)を制覇しており、1994年は同じ舞台で三度笑った。
3歳時にそこらかしこで走りまくった後、4歳時に7戦、次いで5歳時に1戦したが京都牝馬特別の4着が最高着順という結果に終わり、すっかり燃え尽きたテンザンユタカは1996年3月に現役引退。故郷の静内・藤原牧場で繁殖入りした。繁殖牝馬としては2度の生後直死と1度の流産に見舞われるなど決して順調なキャリアではなかったが、カリズマティックとの間に生まれたテンザンコノハナが中央4勝を挙げ、そのテンザンコノハナからアネモネS勝ちのクロスマジェスティが出た。牝系は繁栄しているとは言い難いが、孫娘の奮闘次第で道行は明るいものとなろう。当のテンザンユタカは2009年6月に死亡している。
テンザンユタカ -TENZAN YUTAKA-
牝 鹿毛 1991年生 2009年死亡
父サクラユタカオー 母ロックターキ 母の父チャイナロック
競走成績:中央26戦5勝
主な勝ち鞍:サファイヤS 愛知杯
投稿者プロフィール
- ミドサーの競馬愛好家。2019年、アーケード競馬ゲーム『StarHorse4』の開発に携わり、株券やレース解説のテキスト作成を行ったのが代表的なお仕事。そのほか、競馬予想SNS『ウマニティ』にライターおよび予想家として参画した経験がある。
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